仕事のミス/失敗から学ぶ  


スポンサーリンク




スポンサーリンク

仕事のミス/失敗を繰り返さない方法

■仕事のミスが多い/落ち込む対策とミスを減らす/なくす方法。仕事の失敗が怖い恐怖心を克服するには?方法。職場・会社

仕事のミス/失敗から学ぶ方法
私達が受けてきた教育とは?



バス男「・・いや、本当に、僕には悪気はなかったんだよ。それに、どちらかと言うと、そのミスの責任は上司にあって・・」


バス子「はいはい。その話、何回目?」


バス男「バス子ちゃ〜ん。僕は悪くないんだよー、なんで僕ばっかり、怒られないといけないの?(TmT)ウゥゥ・・・」


バス子「まぁ、私も今週、仕事の失敗をして怒られたから、気持ちはわかるけど、、、。そうだっ!仙人のところに【仕事のミス/失敗から学ぶ】の話を聞きにいってみない?」


バス男「仙人様の【仕事のミス/失敗から学ぶ〜失敗とミスの本質/私達が受けてきた教育とは?〜】の話かぁ・・・」







〜失敗とミスの本質/私達が受けてきた教育とは?〜

1.仕事のミス/失敗から学ぶ
@仕事のミス/失敗をした時

■いいや、私は悪くないよ。

・・いや、まぁ私も確かに、少しは悪かったかもしれないけど、でも、あんなふうに指摘することはないじゃないか!?

あー腹だたしいっ!
誰だって、ミスや失敗はあるだろ!?「じゃあ、貴方は失敗しないのですか?」と言ってやりたいくらいだよ。

今度から、また怒られそうになったら、無視してやろう。

しかしイライラするぅ!なんとかして、仕返しをしてやりたい、、、けど、そうだっ!

相手の悪い{作り話}を、皆にこっそりと言いふらしてやるか。それで相手を懲らしめてやって・・




・・っ!

‘はっ’として、我に返ったのでした。

「あぁ、また以前のように{失敗から学ぼうとせずに、ひたすら相手を責める}をしかけていたんだ。駄目ダメ。謙虚に反省し失敗から学ばなきゃ。」
その日、私は仕事上の問題でイライラしていて、、、いつの間にか脳内で{以前のこと}が回想されていて・・・‘はっ’と気がつくことになったのでした。

「また{失敗から学ぼうとせずに、ひたすら相手を責める}をしそうになっている」と。

私にはどうも、ミスや失敗を指摘されると自己肯定をしたいがためか?
「いいや、私は悪くない。」とミスや失敗を反省することなく、逆に、指摘してきた人を責めてしまう傾向があるようなのでした。

それはもう、ずっと昔から今の今まで続いている傾向であって、また今回も、そうしそうになっていたのでした。


「ふぅ〜、駄目ダメ。謙虚に反省し失敗から学ばなきゃ。」
腹立たしい気持ちもあるし、「私も、間違っていたのかもしれない」とミスや失敗を謙虚に自省するのは嫌なことでもあるけれど。

長期的には、{失敗から学ぼうとせずに、ひたすら相手を責める}をすると、自分自身が苦しむことになり・・謙虚に反省し失敗から学べば、自分の人生がハッピー♪になっていくことを、なんとなく、経験から学び始めてもいて、

もう、苦しい人生になるのは嫌だし、幸せになっていきたいから、

‘ふぅ〜’と息をはき、、、少し冷静になって、失敗から学ぼう!と思うことにしたのでした。

仕事のミスが多い!失敗への対策とは?



A人間は失敗から学ぶ〜仕事のミス/失敗から学ぶ方法〜
■自分がミスや失敗をしていたことがわかると、私はすごく嫌な気分になってしまうのでした。

ミスや失敗をすると、責任を追及されるし、罰を受けるし、「はぁ、私はまた失敗をしてしまった。私は本当に駄目だなぁ。」と劣等感を感じなければならないからでしょうか。

しかし、「人間は失敗から学ぶ」とも聞きます。

例えば‘赤ちゃん’も。
赤ちゃんは、歩けるようになるまで、何度も何度も失敗をします。
立ち上がっては、失敗して転び・・立ち上がっては、失敗して転び・・

何度も失敗をします。

もし、赤ちゃんが会社員ならば。
赤ちゃんは、上司から「またお前は失敗して転びやがって!仕事を舐めているのか?失敗をするな!社内にある{歩き方マニュアル}をお前も研修期間で読み、学んだだろうが!?マニュアルとおりにすれば良いんだよ。これ以上ミスしたら、お前は首だからな!」と怒られるかもしれません。

その結果、赤ちゃんは「すみません。もう失敗はしません。」と謝り、失敗を恐れ立ち上がってみる試みを辞め、、、赤ちゃんは歩けるようには、ならないかもしれません。

赤ちゃんが歩けるようになるのは、失敗をするから・・なのかもしれません。人間は失敗から学ぶ・・。


例えば自転車に乗ろうとする子供も。
子供は、自転車に乗れるようになるまで、何度も何度も失敗をします。
自転車に乗っては、失敗して転び・・自転車に乗っては、失敗して転び・・

何度も失敗をします。

もし、自転車に乗ろうとする子供が会社員ならば。
子供は、先輩から「またお前は失敗して転びやがって!仕事を舐めているのか?失敗をするな!社内にある{自転車の乗り方マニュアル}をお前も研修期間で読み、学んだだろうが!?マニュアルとおりにすれば良いんだよ。これ以上ミスしたら、お前は首だからな!」と怒られるかもしれません。

その結果、子供は「すみません。もう失敗はしません。」と謝り、失敗を恐れ自転車に乗る試みを辞め、、、子供は自転車に乗れるようには、ならないかもしれません。

子供が自転車に乗れるようになるのは、失敗をするから・・なのかもしれません。人間は失敗から学ぶ・・。


そう考えてみると確かに、赤ちゃんも、自転車に乗れるよう頑張る子供も、失敗から学んでおり、‘失敗’という過程なくして「歩く」も「自転車に乗れる」もありえないように思えたのでした。

では、「人間は失敗から学ぶ」のであれば、学ぶためには失敗も必要なのでは?


しかし会社でも学校でも、失敗したら怒られ、ミス/失敗をする人間は「無能者だ!」とされる傾向もあるのかもしれません。

私は学生時代、テストの回答を間違えれば「無能者だ!」とされ、委員会の仕事をミスすると怒られていました。
そのためいつしか「ミスをしないように・・失敗をしないように・・」と、するようになっていきました。

あれ?「人間は失敗から学ぶ」のであれば。
学校は学ぶための機関なのに、どうして失敗を‘悪’とする風潮があるのでしょうか。

そういえば以前。
そもそも学校という制度は「言われたことだけをミスせず忠実に行う兵士と従業員を作り出すために作られた制度」とも聞いたこともあります。本当でしょうか。

近代的な国家が成立してきた時代。
軍事力強化や富国強兵などを方針として掲げた列強(強国)の教育機関などでは、政府(国家)に都合のよい人材を作り出す目的で、教育内容が作られていった側面もあるのかもしれません。

学校という制度により。
上官の命令に対し、言われたことだけをミスせず忠実に行う‘よい兵士’が作られ、雇用主の命令に対し、言われたことだけをミスせず忠実に行う‘よい従業員’が作られ、

列強諸国は国力を強めていき、、、その結果が、二度の悲惨な世界大戦であり・・

戦時中の教育は反省され、改められましたが、未だに「言われたことだけをミスせず忠実に行う人間を作り出す」という部分/風潮は、学校現場に残っている側面もあるのかもしれません。

戦時中の教育は反省され、改められましたが。
未だに、国家や企業としては、好都合なのかもしれません。
言われたことだけをミスせず忠実に行い続ける人が、学校という制度をとおして、たくさん作られていった方が。



もし、言われたことだけをミスせず忠実に行い続ける‘優秀な犬’を育てたい場合。
「待て!」と言ったのにエサを食べ始めたら「ポチ!お前は間違っている!」と叱りつけ、エサを取り上げ。
「お手!」と言って、‘お手’をしてきたら「ポチ〜!君は偉いな〜♪」と褒めてあげエサを与え。

つまり、言ったことに従わなければ犬を叱りつけ、言われたことだけをミスせず忠実に行った時に褒美を与えるわけですが。

言い換えると、言ったことに従わなければ「ポチ!お前は失敗したんだ!」と怒鳴りつけ、
失敗に対する恐怖心を植えつけることにより犬の行動のコントロールを試みるわけですが。

では、その命令をしている‘私’は、神のように絶対的に偉い存在であり、犬は‘私’に比べると絶対的に劣っているから、犬は‘私’の命令に絶対に従わなければならないのでしょうか。

言い換えると。
私が勝手に作り出している{「待て!」と言ったら待つ、私の命令に従う犬は優秀な犬。}という、私の利己的な、私の個人的な基準に従わない犬は、絶対的に愚かな犬であり・・

私が勝手に作っている{「待て!」と言ったら待つ、私の命令に従う犬は優秀な犬。}という、私の利己的な、私の個人的な基準に従う犬は、絶対的に優秀な偉い犬なのでしょうか。

なぜ、ご飯を食べ始めるタイミングすら、犬は私からコントロールされなければならないのでしょうか?
私は、犬がご飯を食べ始めるタイミングすらコントロールして良いほどの、神のような絶対的に偉い存在なのでしょうか?

「愛されたい!」
犬のもっている根源的な欲求{飼い主より愛されたい!}は、(飼い主より愛してもらえないと食べていけないから)とても強いようで・・

根が真面目な犬ほど健気にも「ミス/間違いをしないように。言われたことだけを忠実に行うように!」と一生懸命に頑張り、そして「待て」や「お手」が出来るようになっていくようです。


私は学生時代。
「待て!」と先生が言ったのに給食を食べ始めたら「名無き君!君は間違っている!」と怒られ、給食を取り上げられ。
「待て!」と先生が言って、‘いただきます’まで待っていたら「名無き君〜!君は偉いな〜♪」と褒められ給食を与えられ。

つまり、先生の言ったことに従わなければ怒られ、言われたことだけをミスせず忠実に行った時に褒美を与えられたわけですが。

言い換えると、言ったことに従わなければ「名無き君!君は失敗したんだ!」と怒鳴りつけられ、失敗に対する恐怖心を植えつけられることにより行動のコントロールを試みられたわけですが。

では、その命令をしている‘先生’は、神のように絶対的に偉い存在であり、私は‘先生’に比べると絶対的に劣っているから、私は‘先生’の命令に絶対に従わなければならないのでしょうか。

言い換えると。
先生が勝手に作り出している{「待て!」と言ったら待つ、私の命令に従う生徒は優秀な生徒。}という、先生の個人的な基準に従わない生徒は、絶対的に愚かな生徒であり・・

先生が勝手に作っている{「待て!」と言ったら待つ、私の命令に従う生徒は優秀な生徒。}という、先生の個人的な基準に従う生徒は、絶対的に優秀な偉い生徒なのでしょうか。

なぜ、ご飯を食べ始めるタイミングすら、私は他人からコントロールされなければならないのでしょうか?

先生は、私がご飯を食べ始めるタイミングすらコントロールして良いほどの、神のように絶対的に偉い存在なのでしょうか?

「愛されたい!」
私のもっている根源的な欲求{先生など他者より愛されたい!}は、(先生から嫌われると学校生活が苦しくなるから)とても強いようで・・

根が真面目な生徒ほど健気にも「ミス/間違いをしないように。先生から言われたことだけを忠実に行うように!」と一生懸命に頑張り、そして「待て」が出来るようになっていくようです。


高校野球時代も。
「待て!」と監督がサインを出したのに、私がバットを振ったら「名無き!お前は間違っている!」と怒られ、次の回からベンチに下げられ。

「バント!」と監督がサインを出してきて、バントをしたら「名無き〜!お前は偉いな〜♪」と褒められ、次回からも代打のチャンスを与えられ。

つまり、監督の言ったことに従わなければ怒られ、言われたことだけをミスせずに忠実に行った時に褒美を与えられたわけですが。

言い換えると、言ったことに従わなければ「名無き!お前は失敗したんだ!」と怒鳴りつけられ、失敗に対する恐怖心を植えつけられることにより行動のコントロールを試みられたわけですが。

では、その命令をしている‘監督’は、神のように絶対的に偉い存在であり、私は‘監督’に比べると絶対的に劣っているから、私は‘監督’の命令に絶対に従わなければならないのでしょうか。

監督の命令に従えた場合「成功/優秀」であり、監督の命令に従わなかったら「ミス/失敗」・・え?どうして?

言い換えると。
監督が勝手に作り出している{「待て!」と言ったら待つ、私の命令に従う選手は優秀な選手。}という、監督の個人的な基準に従わない選手は、絶対的に駄目な選手であり・・

監督が勝手に作っている{「待て!」と言ったら待つ、私の命令に従う選手は優秀な選手。}という、監督の個人的な基準に従う選手は、絶対的に優秀な選手なのでしょうか。


私は、青空の下、広く自由な野球場にて、「打って♪守って♪走って♪」と楽しみたいだけなのに。

なぜ、「次のボールを待つか?待たないか?」すら、私は他人からコントロールされなければならないのでしょうか?

そんな自由すらない、他人基準に従い続ける野球を、し続けなければならない必然性は、あるのでしょうか?

「愛されたい!」
私のもっている根源的な欲求{監督など他者より愛されたい!}は、(監督から嫌われると試合に出られないから)とても強いようで・・

根が真面目な選手ほど健気にも「ミス/間違いをしないように。監督から言われたことだけを忠実に行うように!」と一生懸命に頑張り、そして「待て」が出来るようになっていくようです。


社会人になった1年目。
公立中学校にて臨時教師として働き始めました。

私は臨時教師時代。
「待て!」と私が言ったのに給食を食べ始める生徒がいれば、慌てて席を立ち上がり、「ちょっ!△△君!まだ‘いただきます’を言っていないだろ!?なに考えてんの!?君は間違っているよ!」と怒り、給食を取り上げ。

「待て!」と私が言って、‘いただきます’まで待っていたら「△△君〜!君は偉いな〜♪」と褒め給食を与え。

つまり、私の言ったことに従わなければ怒り、言われたことだけをミスせずに忠実に行った時に褒美を与えていたわけですが。

言い換えると、言ったことに従わなければ「△△君!君は失敗したんだ!」と怒鳴りつけ、失敗に対する恐怖心を植えつけることにより生徒達の行動のコントロールを試みたわけですが。

では、その命令をしている‘私’は、神のように絶対的に偉い存在であり、生徒は‘私’に比べると絶対的に劣っているから、生徒は‘私’の命令に絶対に従わなければならないのでしょうか。

私の命令に従えた場合「成功/優秀」であり、私の命令に従わなかったら「ミス/失敗」・・え?どうして?

言い換えると。
私が勝手に作り出している{「待て!」と言ったら待つ、私の命令に従う生徒は優秀な生徒。}という、私の個人的な基準に従わない生徒は、絶対的に愚かな生徒であり・・

私が勝手に作っている{「待て!」と言ったら待つ、私の命令に従う生徒は優秀な生徒。}という、私の個人的な基準に従う生徒は、絶対的に優秀な偉い生徒なのでしょうか。

なぜ、ご飯を食べ始めるタイミングすら、生徒達は私からコントロールされなければならないのでしょうか?

なぜ、「ご飯を、いつ食べ始めるか?」の自由すら、生徒達は奪われていき、それがまるで、「当たり前」のように思い込まされていっているのでしょうか。それは誰にとってメリットあることなのでしょうか。

「ご飯を、いつ食べ始めるか?」のタイミングすら他人に決められることは、「当たり前」なのでしょうか?「当たり前」では、ないのでしょうか?

どういった洗脳/教育を受けて育っているから、「給食を先生の指示で食べ始めるのは、当たり前のことじゃない?なんで、こんなくだらない‘当たり前’の話を書いているの?」と思考が進んでしまっているのでしょうか?


私は、生徒がご飯を食べ始めるタイミングすらコントロールして良いほどの、神のように絶対的に偉い存在なのでしょうか?

「愛されたい!」
生徒達のもっている根源的な欲求{先生など他者より愛されたい!}は、(先生から嫌われると学校生活が苦しくなるから)とても強いようで・・

根が真面目な生徒ほど健気にも「ミス/間違いをしないように。先生から言われたことだけを忠実に行うように!」と一生懸命に頑張り、そして「待て」が出来るようになっていき、「先生の命令/指示に従う?えっ?そんなの当たり前じゃない?」と思うようになっていくようでした。


同じように。
親は子供達に対して。
「待て!」と言ったのにご飯を食べ始める子供がいれば、席を立ち上がり怒り狂って「△△ちゃん!君は間違っている!」と怒り、ご飯を取り上げ。
「待て!」と親である‘私’が言って、‘いただきます’まで待っていたら「△△ちゃん〜!君は偉いな〜♪」と褒めご飯を与え。

つまり、親である‘私’の言ったことに従わなければ怒り、言われたことだけをミスせずに忠実に行った時に褒美を与えるわけですが。
言い換えると、言ったことに従わなければ「△△ちゃん!君は失敗したんだ!」と怒鳴りつけ、失敗に対する恐怖心を植えつけることにより子供の行動のコントロールを試みるわけですが。

では、その命令をしている‘親である私’は、神のように絶対的に偉い存在であり、子供は‘親である私’に比べると絶対的に劣っているから、子供は‘親である私’の命令に絶対に従わなければならないのでしょうか。

言い換えると。
親が勝手に作り出している{「待て!」と言ったら待つ、私の命令に従う子供は優秀な子供。}という、親の個人的な基準に従わない子供は、絶対的に愚かな子供であり・・

親が勝手に作っている{「待て!」と言ったら待つ、私の命令に従う子供は優秀な子供。}という、親の個人的な基準に従う子供は、絶対的に優秀な偉い子供なのでしょうか。

親である私は、子供の行動や、子供が歩むべき人生を(巧みに)コントロールして良いほどの、神のように絶対的に偉い存在なのでしょうか?

「愛されたい!」
子供達のもっている根源的な欲求{両親から愛されたい!}は、(両親から嫌われると生きていけないから)とても強いようで・・

根が真面目な子供ほど健気にも「ミス/間違いをしないように。親から言われたことだけを忠実に行うように!」と一生懸命に頑張り、そして「待て」が出来るようになっていくのかもしれません。

根が真面目な子供ほど健気にも「ミス/間違いをしないように。親から言われたことだけを忠実に行うように!」と一生懸命に頑張り、そして「親が自分に望んでくる人生」を生きるようになっていくのかもしれません。「自分が自分に望む人生」ではなく・・。



私達はいったい、どういった教育を受けてきたのでしょうか?
私達は、誰にとって好都合な教育を受けてきたのでしょうか?

私達はいったい、どういった教育を受けてきた人たちに囲まれ、普段生活をしているのでしょうか。


他人から言われたことをしないのは、絶対的な‘悪’なのでしょうか?それとも善なのでしょうか?
「言われたことだけをミスせず忠実に行う」は絶対的な‘善’なのでしょうか?それとも悪なのでしょうか?
失敗やミスは、絶対的な‘悪’なのでしょうか?それとも善なのでしょうか?



受ける教育次第で、人間は、大きく変わってしまうようです。

戦時中、私達の爺様や曾爺様、曾曾爺様たちは「祖国のために、他国の敵兵達を撃ち、私も戦場で散ってきます。」と言い、若くして祖国のために、世界の和平のために自らの命を・・してきました。
この話は、そんな昔の話ではありません。

そして現在、私は「国なんてどーでも良いんだよ。選挙日?知らないよ〜」と言いつつ生きています。


私達の爺様や曾爺様、曾曾爺様たちは、どういった教育を受けてきたのでしょうか?

そして私達は、どういった教育を受け育ってきたのでしょうか?

その時代を生きている当事者には、「自分はどんな教育を受けて育ってきたのか?」がわかりにくいようです。


・・未だに教育現場では「言われたことだけをミスせず忠実に行う人間を作り出す」という部分/風潮が、残っていたりもするのかもしれません。

戦時中の教育は反省され、改められましたが。
未だに、国家や企業としては、好都合なのかもしれません。
言われたことだけをミスせず忠実に行い続ける人がたくさん作られていった方が。


私達はいったい、どういった教育を受けてきたのでしょうか?
私達は、誰にとって好都合な教育を受けてきたのでしょうか?

私達はいったい、どういった教育を受けてきた人たちに囲まれ、普段生活をしているのでしょうか。

他人から言われたことをしないのは、絶対的な‘悪’なのでしょうか?それとも善なのでしょうか?
「言われたことだけをミスせずに忠実に行う」は絶対的な‘善’なのでしょうか?それとも悪なのでしょうか?
失敗やミスは、絶対的な‘悪’なのでしょうか?それとも善なのでしょうか?


そもそもなぜ、ミスや失敗をすると、「はぁ、私はまた失敗をしてしまった。私は本当に駄目だなぁ。」と劣等感を感じなければならないのでしょうか?
人間は、失敗から学ぶ生き物であるのに・・。

私達はどういった教育を受けて育ってきたから、ミスや失敗をすると、「はぁ、私はまた失敗をしてしまった。私は本当に駄目だなぁ。」と劣等感を感じることになっているのでしょうか。
失敗やミスは、絶対的な‘悪’なのでしょうか?それとも善なのでしょうか?


そもそも、失敗とは、なんなのでしょうか。
ミスとは、なんなのでしょうか?

人間社会における失敗/ミスとは、他人が作り出した基準に沿わないことでもあり、他人が作り出した基準から外れると「失敗/ミス」とされてしまう傾向もあるのかもしれません。

例えばゴルフ
4打でボールを、グリーン上のホール(穴)に入れることが出来なかった時。
私は一緒にゴルフを周っている友人より、まるで「失敗/ミス」をしたかのような目で見られたのでした。

えぇ?
どうして、4打でボールを、グリーン上のホール(穴)に入れることが出来なかったら「失敗/ミス」なの?
個人的には、3打で入ろうが、10打で入ろうが、そんなことはど〜でも良くて、私はただ、みんなと一緒にゴルフをワイワイと楽しみたいだけなんだけど。

【このコースでは、4打でボールをグリーン上のホール(穴)に入れること】という決まり/基準は、どこかの、誰かが、勝手に作り出した基準であって。
自分以外のゴルファー達が、その基準に、勝手に従ってゴルフをしているだけであって。

どうして私まで、4打でボールを、グリーン上のホール(穴)に入れることが出来なかったくらいで「失敗/ミス」としなければならないのでしょうか。

その理由は、人間社会における失敗/ミスとは、他人が作り出した基準に沿わないことでもあり、他人が作り出した基準から外れると「失敗/ミス」とされてしまう傾向があるからなのかもしれません。


例えば野球。
私はフォアボールで1塁に出塁した後。
(独自の判断で)盗塁をし、2塁に進みました。

するとベンチに戻った後、監督から「お前、なに勝手なことをしてるんだよ!おい、佐藤。名無きに代わって次からお前が守備につけ。」と、まるで「失敗/ミス」をしたかのように怒られたのでした。

えぇ?
どうして、盗塁して2塁に進んだだけなのに「失敗/ミス」なの?

【監督である俺のサインに従え。お前ら選手は、言われたことだけをミスせず忠実に行えば良いんだ】という決まり/基準は、監督が、勝手に作り出している基準であって。

自分以外の選手達が、その監督の個人的な基準に、勝手に従って野球をしているだけであって。

どうして私まで、盗塁しただけなのに「失敗/ミス」とされ怒られなければならないのでしょうか。

その理由は、人間社会における失敗/ミスとは、他人(この場合は監督)が作り出した基準に沿わないことでもあり、他人が作り出した基準から外れると「失敗/ミス」とされてしまう傾向もあるからなのかもしれません。
※もちろん、監督の指示のもと皆で協力し合ってチームプレイに徹することが大切。ここでは説明のため。


例えば学校。
私は美術の時間、ハイクオリティーなイラストを描いていたのでした。

すると先生から「まぁっ、名無き君は、なんて酷い絵を描くの!?・・信じられません。今すぐ、その絵を捨てて、まともな絵を書き直しなさい。」と、まるで「失敗/ミス」をしたかのように怒られるのでした。

えぇ?
どうして、ハイクオリティーなイラストを描いていただけなのに「失敗/ミス」なの?

【教師である私の美的センスに従いなさい。生徒は、言われたことだけをミスせずに忠実に行えば良いの】という決まり/基準は、先生が、勝手に作り出している基準であって。

自分以外の生徒達が、その先生の個人的な基準(どんな絵を、‘良い絵’とするか?)に、勝手に従って絵を描いているだけであって。

どうして私まで、普通に絵を描いていただけなのに「失敗/ミス」とされ怒られなければならないのでしょうか。

その理由は、人間社会における失敗/ミスとは、他人(この場合は先生)が作り出している基準に沿わないことでもあり、他人が作り出している基準から外れると「失敗/ミス」とされてしまう傾向もあるからなのかもしれません。


例えば会社。
私は会社にて、ハイクオリティーなイラストを描くのでした。

すると上司から「お、お前は本当に・・なに考えてんだよ!仕事を舐めているのか!?そんな絵を描いて・・会社を潰す気か?描き直しだよ、ったく。」と、まるで「失敗/ミス」をしたかのように怒られるのでした。

えぇ?
どうして、ハイクオリティーなイラストを描いていただけなのに「失敗/ミス」なの?

【上司である私の指示に従いなさい。部下は、言われたことだけをミスせずに忠実に行えば良いのだ】という決まり/基準は、その会社内で、勝手に作り出されている基準であって。

自分以外の同僚達が、その会社の社長や上司の個人的な基準(どんな仕事を‘良い仕事’とするか?)に、勝手に従って仕事をしているだけであって。

どうして私まで、普通に仕事(絵を描く)していただけなのに「失敗/ミス」とされ怒られなければならないのでしょうか。

その理由は、人間社会における失敗/ミスとは、他人(この場合は会社の社長や上司)が作り出した基準に沿わないことでもあり、他人が作り出している基準から外れると「失敗/ミス」とされてしまう傾向もあるからなのかもしれません。
※もちろん、社長や上司の指示のもと皆で協力し合って働くことが大切。


例えば会社。
私が、とあるデザイン会社に、イラストを発注したとします。
で、デザイン会社のイラストレーターが絵を描き、3日後にイラストを納入してきたとします。

私は、その納入された絵を見て「な、なんだこの・・この、まともで真面目な上手い絵は!こんな絵をサイトに載せたら、名無き仙人、やってられないだろうが!書き直しだよ、ったく。こ、こんなすっげぇー上手い絵なんて使えないよ。こんな絵に金が払えるかよ!」と怒り狂い、納入品をつき返すことでしょう。

すると、デザイン会社のイラストレーターは上司より「失敗/ミス」とされ怒られ、

「えぇ?どうして、ハイクオリティーなイラストを描いていただけなのに「失敗/ミス」なの?」と悩み、頭痛に悩まされることでしょう。

【発注先である私の指示に従いなさい。受注先である貴方は、言われたことだけをミスせずに忠実に行えば良いのだ】という決まり/基準は、その社会内で、勝手に作り出されている基準であって。

この場合なら、私の個人的な基準(どんな仕事を‘良い仕事’とするか?)に、従わなければならず・・

どうしてイラストレターまで、普通に絵を描いていただけなのに「失敗/ミス」とされ怒られなければならないのでしょうか。

その理由は、人間社会における失敗/ミスとは、他人(この場合は変態な発注先)が作り出した基準に沿わないことでもあり、他人が作り出している基準から外れると「失敗/ミス」とされてしまう傾向もあるからなのかもしれません。



つまり会社や高校野球など。
ある組織内における失敗とは、その組織のトップ(社長や監督)が勝手に作り出している基準やルールに沿っていないことでもあり、その基準が絶対的に絶対にいつも正しいかどうか?はともかく、その基準に沿わなければ「失敗/ミス」とされてしまう傾向もあるのかもしれません。

仕事上のミスには、そういったことも少なくないのかもしれません。

では、その組織のトップ(社長や監督)が作り出している基準やルールは、絶対的にいつも正しいことなのでしょうか?
答えはNo・・なのかもしれません。

例えば、その組織のトップが私であれば、変態的な基準やルールを作り出すことでしょう。その基準やルールは、絶対的に正しいことではなさそうです。


日本国では。
自分以外の国民皆や政治家が作り出している基準やルール、常識に沿っていなければ失敗/ミス/愚か者/非常識とされる傾向もあるのかもしれません。

日本国内で生きていて、他人から揶揄されたり批判されたりする場合は、そういった{自分以外の国民皆や政治家が作り出している基準やルール、常識に従わなかったから}ということも少なくないのかもしれません。

では、その自分以外の国民皆や政治家が作り出している基準やルールは、絶対的にいつも正しいことなのでしょうか?
答えはNo・・なのかもしれません。

例えば戦時中。
自分以外の国民皆や政治家が作り出していた基準やルールは「国のために他国の敵兵達を撃ち、お前も戦場で散ってこい。」でした。
その基準やルールは、絶対的に正しいことではなかったのかもしれません。


だから。
だからもっと、「自分にとっての幸せを大切にしなさい!」ということなのかもしれません。
関連幸せの定義/基準(自分にとっての幸せ/宇宙の意図)


私達は
仲間である他者達と、ともに協力し合いながら生きていて。
そのため、仲間である他者の基準や価値観などを尊重しつつ、尊敬しつつ・・自分勝手やワガママを連発することなく、他者と協力し合いながら生きる必要があるのだけれど。


でも、だからといって、他人達が勝手に作っているルールや基準に鵜呑み的に従い、
他人達が勝手に作っているルールや基準に振り回されながら、
他人達が勝手に作っているルールや基準全てに従いつつ、自分までもが人生を生きる必要はないのかもしれません。


自分以外の他人達が勝手に作っている・・
「人生とは、こうあるべきだ」
「社会常識とは、こうで、貴方も社会常識に従って生きるべきだ」
「失敗する人間は愚か者であり、ミスするような人間は、価値のない人間であり」
「裕福な基準は、こーで、あーで」
「勝ち組とは、こういう人たちのことを言って、負け組みとは、あーゆう人達のことを言って」
「幸せな状態とは、こういうことを言うのであって」


そういった、自分以外の他人達が勝手に作っている基準やルールに、自分までもが縛られる必要はないのかもしれません。


もっと自分にとっての幸せを大切にしなさい。
他者を尊敬し、他者の基準を尊重し、そして自分は自分で、自分の基準ももち、周りの目や評価を過度/過剰には気にすることなく、自分らしく自分の人生を楽しみながら生きなさい。
自然体でいなさい。
幸せな人生を生きなさい。



B重要なのは人生〜仕事のミス/失敗から学ぶ方法〜
■自分が受けてきた教育を疑うことは、自己否定にも繋がるため、感情的に反発したくもなるのですが、しかし、それは最初だけであって。

自分が受けてきた教育を、中立な目で客観視することが出来るようになると、{失敗に対する恐怖心からの自由}なども含め、人生がどんどん自由になっていくものなのかもしれません。


さて、どんなに優れた教師であっても。
「自転車」という言葉や、「自転車」の意味を、生徒達に教えることは可能なのですが、、、「自転車の乗り方」に関しては、生徒自らが‘乗ってみるものの、転ぶ’という失敗を何度もしながら学んでいくしかないのかもしれません。

それゆえ、学校にて{言葉}や{言葉の意味}を学び社会に出た後は。
私達自らが失敗をしながら学んでいくしかない側面も、あるのかもしれません。


〜仕事のミス/失敗から学ぶ方法〜
→学校では間違いをしないと頭が良いと思われる。人生では、間違いをおかし、そこから学ぶことが出来てはじめて頭が良いといえる。


<人生では失敗をとおして、学んでいくしかない側面もある>

そのことは、【成功パズル】を完成させていくためには、「失敗ピース」を扱うことを、避けては通れないことにも似ているのかもしれません。

人生という名の【成功パズル】の枠付近は、‘失敗’とかかれたピースで埋める必要があるようです。

そのため、人生という名の【成功パズル】を完成させたい場合、まずは枠付近(最初に取り組む場所)の、‘失敗’とかかれたピースを扱う必要があるのかもしれません。

そして、枠付近の、‘失敗’とかかれたピースを恐れることなく、どんどん扱い埋めていけば。
枠付近が埋められていき・・つまり、成功への土台が完成されていき、、、‘失敗’と書かれたピースを扱う頻度は減っていくことになり、と同時に、その後は【成功パズル】の完成までが早くなるものなのかもしれません。



また、学校では{正しい答え}は1つだけであり、その{1つだけの正しい答え}を教師から教えられる場合も多いようなのですが。

私達は1人1人、それぞれで違いも多いため、‘人生’には人それぞれに{オリジナルな答え}があって、その{自分オリジナルな答え}は、自分で手探りをしつつ見つけ出していく必要があるのかもしれません。


〜仕事のミス/失敗から学ぶ方法〜
→‘学校’では、正しい答えは1つだけ。しかし人生では、人それぞれで正しい答えが異なる。人生では、自分にとっての答えを、自分で見つける必要がある。


誰しも、{自分オリジナルな答え}を手探りで探す過程においては、失敗も経験するかもしれません。手探りなのですから。

それは恋愛での失敗かもしれませんし、仕事での失敗かもしれませんし、就職/転職での失敗かもしれませんし、人間関係の失敗もあったり、するのかもしれません。

そういった人生における失敗/ミスは、ある意味、仕方ないものであり、避けてはとおれないものであるため。
人生においては失敗を過度・過剰に恐れる必要はないし、また失敗から教訓を学んだ後は、失敗をいつまでも後悔する必要も、ないのかもしれません。


<失敗は成功の1部であって、失敗から教訓を学び、次にいかせばいい>
人生で1番大切なことは仕事ではなく・・・仕事は人生を構成している1要素にすぎないのかもしれません。


重要なのは人生だ。
重要なのは「どう生きるか?」だ。
人生が‘仕事’に呑まれてはいけない。


仕事でミスや失敗をすれば、自分のミスが皆に迷惑をかけるから罪悪感で苦しむことになりそうです。
そのため仕事でミスや失敗をすれば悔やまれるし、「失敗をしないように。ミスをしないように。」となりがちなのかもしれません。

ただ、それは仕事上の話であって。
仕事よりも人生の方が大切であり、人生では<失敗は成功の1部であって、失敗から教訓を学び、次にいかせばいい>のですから、仕事で失敗をしてしまった場合も。

失敗した後のこれからが大切であって。
素直に失敗を認め謝り、失敗から教訓を学びつつ、誠実に謙虚に一つずつ対応していき・・失敗をいつまでも後悔する必要はないのかもしれません。


重要なのは人生だ。
重要なのは「どう生きるか?」だ。

私には、仕事で失敗をしてしまったさいに、嘘をついて誤魔化してしまったり、{失敗から学ぼうとせずに、ひたすら相手を責める}をしてしまう傾向があるのでした。

嘘をつく。不誠実な対応をする。誤魔化す。責任転嫁する。
それらは、「どう生きるか?」に関する問題であり、それらの問題は{仕事でしたミス}以上に深刻な問題のようにも、個人的には感じているのでした。

私は、{嘘をつく。不誠実な対応をする。誤魔化す。責任転嫁する。}など「どう生きるか?」に関する部分を誤り続けるせいで、破滅原則的になっていき・・原理・原則のままに人生自体が、衰退していき自分自身も周りも、苦しむことになる・・そういった‘失敗’をしてきていて・・

個人的には、仕事でミスがあっても、人としての道を誤るようなことがなければ・・とも感じているのでした。
関連破滅原理と繁栄原則(2つの原理原則)



C仕事のミス/失敗をへらすために〜仕事のミス/失敗から学ぶ方法〜
■「私は、いついかなる時も私基準で生きるんだよ!」
そういったことも、反抗期の中学生/高校生なら良いのかもしれないけれど。

大人になり働き始めると、他者の基準を尊敬/尊重し、他人の基準に合わせることも仕事の1部になるのかもしれません。


〜仕事の1要素→他人(社長/上司/お客様etc)の基準を知り、他人の基準に合わせること〜


心の中では、自分基準も大切にしつつ、仕事においては、他者の基準を尊敬/尊重し、他人の基準に合わせることも大切となり、他人が作り出した基準から外れたことによる「失敗/ミス」も含め、「失敗/ミス」をしてしまった時には謙虚に受け止め反省し、再発防止策に取り組む必要も、あるのかもしれません。


@再発防止策
→仕事において「失敗/ミス」をしたならば、謙虚に受け止め反省し謝り、その後は再発防止策に取り組む必要もありそうです。
【こうすると失敗をするため、次からは気をつけよう自分マニュアル】を、手帳やパソコン/携帯電話のメモ帳に作っていき、同じ失敗をしないよう努めるのも良さそうです。

誰でも失敗をするため、1度目の(悪意のない/悪気のない)失敗は許してもらえることが多いそうです。

ただし、同じ失敗を何度もしていると「この人は、失敗する度に「ごめんなさい」と謝るけど、本気で反省はしていないな。本気で反省したら何度も同じ失敗をしないから。口先だけで謝っているんだよ、きっと。こっちをバカにしているのか?」と思われ、信頼をなくしてしまう場合もあるのかもしれません。

そのため再発防止策は必要なのかもしれません。


A他人の失敗から学ぶ
→私達は失敗から学ぶわけですが、だからといって、全ての失敗を、自分で経験している時間は人生にはないのかもしれません。

そのため、先人の失敗からも学ぶようにするのも、良さそうです。
本を読んだり、webサイトを調べることで、先人の失敗からも学ぶことができるようです。


私は、(失敗を過度に恐れるあまりの反動より)「人間は失敗からしか学べないんだ!失敗を恐れるな!」とばかりに、たくさん自らが失敗を犯そうとして・・そのせいで自分が苦しむことにもなったことがあったのでした。
自ら失敗をし続ける苦行をする必要はないのかもしれません。
関連苦行は辞めなさい(苦行は誰のため?)


人生を楽しく幸せに生きるために。
特に新たなことにチャレンジする場合は、{失敗し、失敗から学ぶ}も想定の範囲内に入れて、失敗を恐れることなくチャレンジしてみれば良さそうですが・・だからといって、なにも、わざわざ不必要な失敗まで自らが経験するような、苦行をする必要もないのかもしれない。



Dミス/失敗に対する考え方〜仕事のミス/失敗から学ぶ方法〜
■「失敗に対するバランス感覚」についても、見てみましょう。


@ミスできない現実
→「人間は失敗から学ぶ」とは言うものの、仕事においては「@ミスができない現実」もありそうです。


Aミスからしか学べない現実
→しかしそれでも、マニュアルを読んだだけで、30年も40年も働く中で失敗やミスがゼロになることはなく、「Aミスからしか学べない現実」もありそうです。


Bミスを恐れれば新しいことにチャンレンジできない現実
→そして、「Bミスを恐れれば新しいことにチャンレンジできない現実」もあるのかもしれません。

赤ちゃんが「歩けるようになる」場合も、子供が「自転車に乗れるようになる」場合も、私達が、なにか新しいことにチャレンジする場合は特に。
「失敗やミスから学んでいくしかない現実」もありそうです。

新しいことにチャンレジする場合は、手探り状態でもあり、失敗がつきもの・・と言えるのかもしれません。

だからこそ、失敗を恐れ始めると新しいことが出来なくなるようなのです。

例えば、失敗を恐れる赤ちゃんがいるならば。
「僕、‘立つことにチャレンジしてみたものの、やっぱり転ぶ’という失敗はしたくないから。」と言い続け、5歳になっても、未だにハイハイをしているかもしれません。


C新しいことにチャンレンジしなければ衰退していく可能性
→また、「C新しいことにチャンレンジしなければ衰退していく可能性」もあるのかもしれません。

いわゆる{ゆでガエル}的な現象ですね。

「私はパソコンとか機械系は苦手だし、パソコン操作を学ぼうとして、やっぱりわからずミスするのが嫌!」と言い続け、パソコンを学ぶことにチャレンジしなければ。
人生の可能性も、狭まってしまうかもしれませんし、仕事を失う場合もあるかもしれません。



つまり、職場や仕事では「失敗/ミス」が出来ない現実があるのだけれども。
人生においては、どこかで「失敗/ミス」を受け入れ、「失敗/ミス」をする覚悟のもと、新しいことにチャンレンジしてみることも、必要な場合があるのかもしれません。

人生においては。
失敗は成功の1部であって、失敗自体は悪いことではなく、失敗すれば失敗から教訓を学び取り、前向きに生きていけば良いのかもしれません。


〜仕事のミス/失敗から学ぶ方法〜
→学校では間違いをしないと頭が良いと思われる。人生では、間違いをおかし、そこから学ぶことが出来てはじめて頭が良いといえる。



D失敗に対する恐怖心を克服する〜仕事のミス/失敗から学ぶ方法〜

■未熟者な人間が、偉そうなことを書いてきて、本当に申し訳ございませんでした。

私は、教師家系に生まれ育ち、自身も1年だけではありましたが教職についていて・・

つまり「間違いをしないと頭が良いと思われる。」という風潮が色濃い環境の中、生きてきていて。

私は「失敗/ミス」を犯すことが、恐くて恐くて、、、だから失敗をすると、ついつい反射的に「いいや、私は失敗なんてしていないよ。」と嘘をついて誤魔化してしまったり、{失敗から学ぼうとせずに、ひたすら相手を責める}をしてしまう傾向もあるようなのでした。

また失敗を恐れるあまり、新しいことにチャンレンジできなかったり・・そういった傾向もあるようなのでした。


そんな自分を変えたくて。
上記のような話を、自分自身に、何度も言い聞かせることで、「失敗/ミス」に対する恐怖心を克服するよう努めてきていて、今はリハビリ中なのでした。


そしてつい最近も、ミスしてしまって落ち込んでいて・・

そんな時、「オマハの賢人」とも呼ばれているウォーレン・バフェット師の「ミスから教訓を学び取ったらミスは忘れ、前向きに」という趣旨の言葉に出会い、「あぁ、そうだよなぁ。」と、救われた思いがして・・

私達は、ミスや失敗を悔やむために、ココに来ているわけではないし、ミスや失敗を悔やんでも過去は変えられないのだから、前向きに生きていければ・・とも思いながら、

これからまた、コツコツと精進していくことで将来。
(将来の地点で)今が輝き始めれば、「あの過去(の失敗)あって、今の私がある」と最近犯したミスさえ受け入れることができるようになる・・そう信じて、前向きに生きていこう!とも思うよう頑張ってみたりしているのでした。



〜まとめ 仕事のミス/失敗から学ぶ方法〜
@重要なのは人生であり「どう生きるか?」。
仕事、恋愛、人間関係・・失敗をしてしまったとしても、人の道を誤らなければ大丈夫。

A失敗した後のこれからが大切であって。
素直に失敗を認め謝り、失敗から教訓を学びつつ、誠実に謙虚に一つずつ対応していき・・失敗をいつまでも後悔する必要はなく、前向きに生きていこう。

素直に失敗を認め謝り、失敗から教訓を学びつつ、誠実に謙虚に一つずつ対応していく姿を、誰も見ていないかもしれないし、誰も評価してくれないかもしれないけれど。
全世界、全宇宙が、「失敗に対して、どういう対応をするか?」を見ていて、きっと、その前向きな姿勢を見守ってくれている。


〜追記〜
仕事に限らず、人生や恋愛では失敗がつきものですよね。

責任転嫁することなく、正しく反省すると、失敗から学べることが多そうです。

人のせいにする人の心理と私の対処法(責任転嫁への上手な対処法)

正しい反省の仕方!仕事編(問題の本質を捉え対処療法をしないこと)


さて、私たち従業員が、仕事のミスや失敗を恐れる理由や、上司の指示とおりにロボットのように働く理由には、江戸時代から続く、階級社会が関係しているようです。

階級社会については、以下の記事が詳しいです。

@資本家/投資家階級から労働者階級が搾取される仕組みは江戸時代から(格差社会と階級社会の真実)

A日本の労働者階級を抜け出し富裕層になるには?2つの方法(労働者階級から抜け出る方法)

B日本人が働きすぎる理由!戦国時代から続く過労死への対策(3つの原因)

〜仕事のミス/失敗から学ぶ方法〜
<writer 名無き仙人>


★よく読まれている記事★
【人気】高利回りソーシャルレンディング投資とは?仕組みを解説(超高時給の投資!私が投資する理由)

【人気】「初心者向け」少額から始める資産運用のやり方【おすすめ運用先】儲かるよ(儲かる資産運用の始め方)






バス男「人間は失敗から学ぶ生き物なのかなぁ。」


バス子「仕事で失敗やミスをしても、前向きに・・かぁ。」


仙人「過去のミスに囚われることなく、楽しい幸せな人生を生きていけると良いのぉ。関連記事では仕事でミスが多い?減らす対策(8つのコツ)がおすすめじゃよ。」


関連仕事でミスが多い?減らす対策(8つのコツ)
役立つ仕事術の本3冊(コレを読んでおけば間違いなし!仕事術本編)
怒りを沈める/抑える方法(怒り/不満時のコミュニケーション)
仕返し/報復方法を探すな!(仕返しは法則が行う)
人生は夢(人生の正体)
疲れやすい原因(カロリーとエネルギーの違い)
社会の仕組み({なんでも出来る君}と10人の協力する村人)
幸運体質の人生を作る言葉(幸運な人生に繋がる言葉とは?)




お勧めビットコインとは【わかりやすく図解で仕組みを】初心者向け簡単に(人気の理由)
産業用太陽光発電への投資!メリット/デメリット(不動産投資より手堅い)
FXの始め方!基礎とポイントをわかりやすく解説(為替で儲けよう!投資は大人の趣味)
高利回りソーシャルレンディング比較一覧!お勧めはココ(お勧めの会社はどこ?)
簡単!仮想通貨の始め方【初心者におすすめコインも】(仮想通貨の買い方)





★ 生活費の節約術とお金を増やす方法(月5万円/年60万円の自由なお金を作る方法)

★ 見た目年齢の若い元気な人になる方法(実年齢より見た目年齢が若い人がやっていること)

★ 恋愛/婚活!出会いの方法一覧(自分に合った出会いの方法を見つけよう)


仕事仙術

恋愛・婚活仙術

その他